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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞
1998年7月24日掲載
執筆者 石川文彦 |
衰退
水差す不況と疫病
大正十二(一九二三)年以降、不景気や疫病のまん延で阿波踊りは全体的に盛り上がりに欠けた。
規制も再び強まり、一時は許されていた真夜中の踊りも厳禁となった。徳島毎日新聞の記事からその様子を探ってみたい。
十三年は流行性脳せきずい膜炎が猛威を振るったため開催が危ぶまれたが、徳島警察署では「何分、商家も盛り場も書入時(かきいれどき)にして居りますし、既に盆踊りについての商取引も実行してゐませうしするに、今本署が盆踊取止めすると云ふ事は不可(いけ)ない」と、黙許された。
徳島公園に繰り込んだ大正末期の踊り子=当時の絵はがき
しかし同時に規制も強まり▽午前零時までを厳守▽学生は参加できない▽奇異、ひわいな変装は厳禁▽左側通行―の四点を厳守するよう条件が付いた。
花街では「ヨシコノを中心で唄の如きも衛生第一を織込んだものでやらうといふ行方(ゆきかた)です…脳脊(のうせき)―それはおそろしいが、何もかも衛生衛生でおどります」と、趣向は衛生歌でゆこうということになった。こうした花街およびレート隊などの「商売繁盛宣伝のおどり」は例年通りだったが、全体では非常に寂しかった。
■雨がたたる■
翌十四年も雨のため、九月二日の初日以外はつぶれてしまった。一日延長したが、それも雨だった。初日の様子は「町に出て見ると南廓、内町、富街共立の連中がとりどりの美しい衣装で練歩いてゐる外、町娘、師匠連のながしは弗々(ぼつぼつ)しか見あたらぬ。揃いの浴衣に尺八を吹いて通るものもめったに見かけない」様子で「踊る阿呆も見る阿呆も寂寥らしい」の見出しが付いている。徳島市以外も寂しく、池田では「素人連の踊りは一組だに見受けず」、少数の芸者が踊って行っただけ。「寂寥斯くの如きは池田町初めてのこと」と伝えている。
■けんか多発■
十五年は天気に恵まれ、まずまずだった。二日目の八月二十二日昼などは「そろいの浴衣で『霜夜』の連奏の尺八連、かみしもに鳥追の男女一団が清元の流しなど、気の利いたのがボツボツネッて行く…そして親子、夫婦ものらしいツレ弾(びき)が存外多かったのも変はってゐた」。映画館は女性工員らで盛況だったが、花街は「思いきり不売れ」だった。
不思議なのは規制が強まるとともに、けんかや事故が目立つことだ。大正九、十年などは規制がなく非常なにぎわいだったにもかかわらず、警察署長が感心するほど事件事故がほとんどなかった。
大正十三年には踊りの夜のけんかが数日後に蒸し返されたことさえあり、翌年は一日だけだったのに、何件かけんか騒ぎがあった。十五年には泥酔して踊り連の中に乗り込み、暴れ回った娼妓の記事が三段で出ているほか、華々しいけんかが各地でみられた。 |
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