阿波おどり
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新聞で見る阿波おどり

大正編
新聞記事
徳島新聞
1998年7月21日掲載
執筆者 石川文彦
衣装の変化

長襦袢から浴衣へ

 警察幹部は替わったが、大正十(一九二一)年も、前年に続いてにぎわった。八月十七日からの踊りは、素人連が多く「踊る阿呆に見る阿呆が諸所諸所(ところどころ)に黒山を築いて、一大歓楽郷を現出し、殊に夜更の遊廓内は夜明まで踊り抜いた」。田中警察部長にも取材。「踊手も随分あるが、見物人がすこぶる多いね。団体で繰り出すならば、責任者位は届出る必要がありはしないかと思ってゐたが、五人十人といった風で多数の団体はないようだ。感心したのは喧嘩(けんか)や事故のないことだ」と絶賛している。


大正10年8月18日付徳島日日新報に掲載された盆踊り図

 撫養(鳴門市)でもにぎわった。文明橋を中心に「東は妙見山下、西は四軒屋の辺迄、約二十町の街路は身動きもならぬ程の人出」。十歳前後の少女たちの見事な踊りや、黒又足袋の男女職工の威勢のよさが目立った。深夜になると見物人の数は減ったが、踊り子は逆に増え、徹夜で踊り狂った。しかし徳島市同様、事件事故はなく「往時の盆踊りに比し、風紀上一段の進歩を示した」(以上いずれも徳島日日新報)。

 続いて九月三日からは東宮殿下(後の昭和天皇)の欧州からの帰国を祝う阿波踊りもあった。
先の見物で感心した田中警察部長の意向によるのか、なるべく開放的にと、時間制限なし、久しぶりに徹夜で挙行され、子供や中学生も多数参加した。

 ■老妓の嘆き■

 この年の八月十五日付徳日には「富街阿嬌(あきょう)の追懐話」が載っている。富街検番の老妓が、芸者の踊り衣装の変化について語ったものだ。

 それによると以前は「衣裳に千金を投じて一夕の踊りに三弦を流して歩いた豪奢な富街芸者もあった。其美其姿(そのびそのすがた)こそ乱舞の巷に相応(ふさわ)しいものであり、徳島三廓の芸舞妓が踊衣裳に浮き身を窶(やつ)し、乱菊の長襦袢の蹴出しから濃厚な夏の色が浮き出した」。
しかし今では「一、二円の吹いたら抜けるような揃いの浴衣」が大半で「現今(いまどき)の芸妓ハンはから意気地が無い」と嘆いている。

 踊り衣装の老舗である東新町の「住喜代」にも取材しているが、長襦袢は富田と内町の芸妓に三十枚売っただけ。模様は「白地に唐草」を尾形光琳風に意匠したものが多く、昔のような金額の張るのは今では一枚も無くなった。一方、浴衣は千枚そろえたが、徳島市内だけでなく撫養や池田にもさばけて、残り少なくなっているという。

 ■服装も統一■

 記事は「こうして優美な阿波踊も時代とともに変って行って、許して呉(く)れるならば、素裸になって節調のない乱舞に堕して了うであらう。昔ゆかしい本行の型もなう」で結んでいる。

 明治末期ごろから阿波踊り観光化の兆しがうかがえるが、それとともに服装もだんだん統一されるようになり、芸者も揃いの浴衣が多くなっていた。


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