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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞
1998年8月8日掲載
執筆者 石川文彦 |
観覧場廃止
踊り連からは不満
昭和二十七(一九五二)年にも二度阿波踊りが開かれた。前年に発足した県阿波踊り振興連盟が主催、徳島民報が後援して八月十六日から二日間「阿波踊三百七十年祭」があったのに続き、旧盆の九月三日から三日間行われた。旧盆の踊りでは「市内一円を流してゆく正統阿波踊りの姿を取り戻そう」と、競演場での審査制を廃止。競演場自体、観覧場と名を改めたが、観覧場を中心に踊る傾向は変わらなかった。
観覧場は次第に大きくなり、収容人員も多くなった=昭和32年、徳島市役所前
そこで翌二十八年、徳島新聞の前川静夫社長(当時)が二十六年に紙上で提案した通り、観覧場をすべて撤廃。代わりに臨時照明灯、提灯(ちょうちん)など三百灯を目抜き通りに取り付けた。
徳島新聞では四日間の踊りのあと、関係者による座談会を開き、その模様を紙上に掲載している。
それによると、観覧場廃止は「どこにいても見える」と見物人にはおおむね好評だった。しかし、踊る側からは「審査場がないと、力を入れて踊る場所、つまりヤマがない」と、不満の声が多かった。
■名称を統一■
短評欄「鳴潮」でも「最近集団を主とするように踊り方が変化したので“踊る場所”を必要とするのか、競演場がなくなると不便を感ずるようになった▼“ぞめき”の帯で町を流すという復古調も、交通状態が昔のようでなく、おまけに交通整理がきびしくなると気分が出ないというのも踊り子たちの不満のようだ」と書いている。
しかし、翌二十九年も観覧場なしのまま四日間開催。十一月には、部数を減らし続けていた徳島民報を徳島新聞が吸収合併している。阿波踊りの名称について、二十年代は両紙ともまだ時折「阿波盆踊り」「盆踊り」を使っているが、合併後はほぼ阿波踊りに統一されるようになった。
■30年に復活■
観覧場が復活したのは三十年。この年は八月十三日から三日間、初めて新盆にも踊りが開かれた。
旧盆開催だと四年のうち三年は八月二十日以降になり、九月に入ることもしばしば。県外の見物客の便宜を図ろうと、阿波おどり振興協会で新盆一本の線を出したが「農家は依然として旧盆であり、新盆だと郡部から徳島市内に出てきてくれない」と商店街が反対、八月三十一日から三日間の旧盆にも開く二本立てになった。
結果は新旧とも予想外の盛況ぶり。ただ、市内中心部から離れた観覧場には踊り子があまりやって来ず、設置された七カ所のうち旧盆時には天神下が廃止された。毎年二回開催するのは無理があり、四十年までは旧盆に開催している。
徳島市の二回開催に対して、鳴門市や小松島市も急きょ追随したが、こちらの方はさっぱり。徳島市の阿波踊りは、その後新聞紙上で毎年のように「戦後最高の人出」を記録するが、それとは対照的に三十年代から郡部の踊りは寂れる一方となった。(おわり)=このシリーズは資料出版部・石川文彦が担当しました。 |
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