阿波おどり
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新聞で見る阿波おどり

昭和編
新聞記事
徳島新聞
1998年8月7日掲載
執筆者 石川文彦
競演場充実

踊り連結成相次ぐ

 戦後、阿波踊りは年ごとに盛んになっていく。
昭和二十二(一九四七)年には五月三日の憲法施行日にも「全市踊り次第」となり、旧盆の踊りでは両国橋通りに小さいながらも、競演場(審査場、桟敷)がつくられ、優勝旗や商品を出した。

 ■豪華な衣装■

 二十四年になると新聞も一面トップで大きく扱うようになった。午前九時すぎ、流しに交じって踊り子が繰り出し始め、競演場が開かれる午後三時には次第にその数を増していった。前年には新円切り替えで使えなくなった旧紙幣で作った浴衣を着た連がいたが、この年には豪華なそろいの衣装が多くなった。法被姿や紅白のダンダラズボンも目立ち、林鼓浪さんが嘆いている記事もある。


昭和22年、両国本通りに設置された競演場

 徳島新聞が音頭をとり、二日目の八月九日には郷土民踊競演大会も開催された。芸題踊り(赤河内村、現海部郡日和佐町)供養踊り(鳴門市)まわり踊り(住吉村、現板野郡藍住町)神代踊り(神領村、現名西郡神山町)など九団体が参加。こうした催しもあって、海部、美馬、阿波郡など遠隔地からトラックや列車で徳島市に乗り込んでくる阿波踊り連が多く、これまでになかったことと報じている。また、この年は六十一年ぶりという「うるう盆」の年で、九月六、七の両日にも阿波踊りが開かれている。

 戦後も各地の催しに阿波踊り連が派遣されたが、二十五年五月十四日には神戸博覧会に招待され、娯茶平、のんき、藤本連など九連三百人余が大挙して出かけた。踊り連の結成が相次いだのもこのころだ。

 競演場の規模、数はだんだん増えていった。二十五年には最大の両国通り競演場でも二百人の収容力しかなかったが、二十六年には徳島市と徳島繁栄連盟が八百屋町の道路両側などに計三千人収容の大競演場を造った。

 ■桟敷中心に■

 競演場が充実するとともに市内全域を流していた乱舞が、そこを中心に踊る傾向が強まった。また小人数では引け目を感じるようになり、近所の者が誘い合って気軽に踊っていく人たちが激減した。このほか審査があるために、変わった踊りを披露して目立とうとする連が多くなり、基準の形を保とうと設けた審査が、逆の結果を生み出すようになった。こうしたこともあり、徳島新聞の前川静夫社長(当時)は「来年からいっそのこと競演場を止めてしまったらどうか」と紙上で提案している。

 ただ、競演場中心ながら、新聞紙上の写真などを見ると大きな通りや田舎道などでも乱舞は繰り広げられた。吉野本町のえびすさん連の三十人は、踊り二日目の八月十七日、吉野川橋を休まずに踊り渡る“一息踊り”を午後二時から試みている。
「十一丁の長距離はさすがにこたえるらしく所要時間一時間二十一分で渡り切った時には、ユカタも汗でぐっしょり…」とある。二十年代は交通量も少なく、吉野川橋や大きな通りでも踊り連が行き交う時は、車の方が通り過ぎるのを待っていた。


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