阿波おどり
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新聞で見る阿波おどり

昭和編
新聞記事
徳島新聞
1998年8月5日掲載
執筆者 石川文彦
戦後の再出発

進駐軍と折衝、実現

 社団法人徳島新聞社が創刊号を出した昭和十九(一九四四)年六月には、既に日本の敗戦が決定的となっていた。用紙事情窮迫のため既に夕刊は三月で無くなり、朝刊も次第に二ページの日が多くなっていった。この夏はもはや阿波踊りどころではなかった。

 翌二十年三月には東京大空襲があり、このころから県内でも空襲が始まった。新聞の輸送難に備えて非常措置として四月から「持ち分合同」が順次実施された。全国紙の持ち分紙数を地方紙が発行委託を受け合同吸収するもので、徳島では五月一日から徳島新聞の題字下に朝日など大阪三紙の題字を併記。大阪紙の県内発送は中止された。
 それから二カ月後、七月四日午前一時過ぎのことだった。B29百数十機が徳島市を襲い、焼夷弾千トン余を投下。旧市域の六割以上が焦土と化した。死者は千人近く、重軽傷者は二千人を数えた。

 ■発行を委託■


1945(昭和20)年7月4日、米軍の空襲で焦土と化した徳島市中心街(岡田清一氏撮影)

 徳島新聞社もこの徳島大空襲で社屋を焼失。同日の新聞は発行できなかった。翌日から撫養町内の印刷所を借りて小型紙を出すが、それも八月三日まで。その後は同じく被災した香川日日(現四国新聞)とともに毎日新聞に発行を委託。今度は逆に毎日新聞の題字下に徳島新聞、香川日日の題字を加えただけで、県内関係の記事がほとんど載らない日が九月末まで続いた。ただ戦争終結の八月十五日からは、徳島新聞が県に協力し「徳島県公報」が発刊されている。

 敗戦後の日本は、連合軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。十一月三日には米軍が小松島に進駐。徳島新聞では「あたかも平和使節」と見出しで伝えている。以後GHQ関係の記事は特別扱いとなり、進駐軍の美談といった記事が目に付くようになる。

 二十一年七月四日付徳島新聞によると、徳島大空襲でおよそ七万三百人が被災、うち四万八千百人、一万七千世帯が疎開した。しかし六月十五日までに一万八千四百八十人、四千八百六十世帯が戻り、焼け跡にバラックの仮住宅を次々と建設していった。

 ■踊りが復活■

 こうした中、阿波踊りは復活する。七月二十三日付では「何はなくとも明朗に」の見出しで、次のように伝えている。
 「今年の盆は踊り次第――。縣(けん)保安課ではさきほどから進駐軍と折衝中であった阿波盆踊りはこのほど許可され、いよいようら盆の八月十、十一、十二の三日間、午後十時まで踊り次第となった。工場、會(かい)社、町内會、部落會等の団体で踊る場合は、豫(あらかじ)め最寄りの警察署長に形式を問はないが、責任者を明記した届出をしなければならず、責任者は當(とう)日の指導、監督に當(あた)るやう望んでゐる。
場所は公園、公道で、晝(ひる)間は交通煩雑(はんざつ)のため市蔵本兵舎附近、佐古本通り、寺島本町、産業通り、小松島金磯附近は自粛すべきで凶器、棍棒(こんぼう)の所持は一切禁止されてゐる。また踊り込みは豫め相手側の承諾を得ておく必要ありと縣保安課は言っている」。


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