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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞
1998年8月4日掲載
執筆者 石川文彦 |
6年ぶり復活
踊り連 街にどっと
太平洋戦争緒戦の勝利で盛り上がった阿波踊り開催熱に対し、警察内部では、阿波踊りの場合は他の盆踊りとはだいぶ様相が違うとして、反対意見も強かった。しかし結局、十七(一九四二)年には条件付きで許可されることになった。
条件は九点あったが、主なものは▽徳島公園周辺や田宮天神社境内などに限定し、流しは禁止▽八月二十六、二十七の両日午後五時から十時まで▽防空警報発令時は直ちに中止▽踊り連とその責任者を届け出ること―だった。徳島新聞では「今は昔更生阿波踊り」のタイトルで五回にわたり連載記事を載せ、往時を振り返った。同時に「時局を忘れず踊れ踊れ」など関連記事を多数掲載した。
■郷土盆踊り■
6年ぶりに開かれた阿波踊りの様子を伝える徳島新聞(昭和17年8月27日付)
六年ぶりの阿波踊りについて、徳島新聞は「どっと出た踊の群 あすの元氣に踊ろや踊ろ」の見出しで初日の様子を次のように伝えている。
「(踊り連は)続々市民運動場へ集合、剣先橋、公園櫓(やぐら)下鷲の門から徳島橋への圓形(えんけい)に各記別方面から團体(だんたい)の踊りが繰り出され、久しぶりの懐かしい郷土盆踊りを展開。これを見物に押し寄せた人をもって附近は雑踏。踊子連は『世界の半分日の丸で、勝った勝ったよ兵隊さん、銃後は儂等(わしら)が守ります。御武運長久祈ります。エライヤッチャエライヤッチャにっぽんエライヤッチャ、踊る選士に見る市民、登録したのは伊達(だて)じゃない、あすの英氣に踊らにゃソンソン』と心からの愉楽を味はった」
物資欠乏によりモンペ姿の女性やふだん着のままで踊る人も多かった。また「いつもお先棒をかつぐ花街がどうしたのか気乗り薄」で、場所指定をいやがって観光協会も冷淡だった。
■社団法人化■
戦局は転換期を迎え、翌十八年には日本軍の後退が目立つようになったが、踊りは二日間許可された。灯火管制下の暗い中、どうやって踊ったのだろう。徳島新聞は一日目の様子について「案外に賑(にぎ)わった」とあるだけで、あとは踊りの間、灯火を戸外に漏らす者など違反者が多いので、二日目には断固取り締まるとの警察の方針を伝えているだけだ。
徳島新聞は戦時統合以来、戦争に対する読者の関心に加え、遅いニュースを極力収容するなどして部数は順調に伸び、経営は順調だった。しかし徳島毎日新聞、徳島日日新報の旧両社の幹部たちの間で主導権争いが絶えなかった。戦時統合の目的は新聞の機能を戦争遂行に利用することにあったが、社内がごたごたしていては国策遂行上、問題があった。
そこで県では株式会社を社団法人化することとし、社幹部の抵抗のなか強行した。県警察部が中心になって県民から寄付を募り、それに銀行からの借入金を加え、株式を買収。十九年六月一日、社団法人徳島新聞社は創刊号を発行した。組織変更を機に、またも従来の号数は切り捨てた。 |
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