阿波おどり
地図情報
※2007年の情報です

GPS対応携帯が必要です
(au、DoCoMoに限ります)
マニュアル
阿波おどり日程
徳島市内
徳島市外
昨年の阿波おどり
交通アクセス
アクセス
駐車場
宿泊施設
徳島市内
徳島市外
演舞場
有料演舞場
無料演舞場
選抜阿波おどり
連情報
徳島県内
徳島県外
ライブラリ
新聞で見る阿波おどり
鳴 物(なりもの)
阿波おどりポスター
動 画
写 真
交流広場
リンク


狸

新聞で見る阿波おどり

昭和編
新聞記事
徳島新聞
1998年7月26日掲載
執筆者 石川文彦
沈 滞

金融恐慌の影映す

 大正十五(一九二六)年十二月二十五日未明、大正天皇が逝去され、元号はその日のうちに昭和と改められた。
 昭和に入り、阿波踊りは大正後期以来の沈滞ムードがしばらく続くが、やがて徳島商工会議所が音頭をとり、本格的に観光化への道を歩み始め、息を盛り返す。若者による踊りのジャズ化が非難されたりするが、観光客の増加で次第に盛況になり、新聞も特集を組むなど大きく扱うようになる。
ところが、日中戦争、それに続く太平洋戦争で踊りは中断。長い空白期間を経て、戦後によみがえる。昭和編では、昭和三十年あたりまでを中心にその歩みをたどっていきたい。
 昭和元年はわずか一週間だったが、金融恐慌で昭和の時代の幕を開けた。

 ■弾まぬ踊り■


阿波踊り初日、新蔵町の知事公舎を訪ねて踊る内町の芸妓=昭和初期

 第一次大戦後の不況に関東大震災が追い打ちをかけ、倒産が相次ぎ、銀行は不良資産を大量に抱えていた。藍商の大串龍太郎が明治十五(一八八二)年に設立した徳島銀行(現在の徳島銀行とは別金融機関)でも取り付け騒ぎが起こり、昭和二(一九二七)年二月には休業に追い込まれ、同行が再開されることはなかった。

 二年の踊りは富街検番が願い主となり開催されたが、こうした状況で弾むはずもなかった。徳島毎日新聞によると、お茶屋の主人は芸妓への中元・贈り物がまるでないとこぼし、三味線の新調どころか張り替えをする芸妓がいないありさま。
いつもなら踊り子が繰り出す新町橋や両国橋も納涼を兼ねた見物人ばかりで「これでも名物阿波おどりかと、見物に来た人をしつぼうさした」ほどだった。

 ただ、前年に続いて徳毎が大阪放送局(現在のNHK大阪)に“徳島盆踊り選手”を派遣。その様子が十五日に放送され、徳島公園で受信、拡声器で試みに流された。「唄、三弦、笛、太鼓のオーケストラは、十三日で終った筈(はず)の盆踊が再現した如き感を催させ」(徳毎)と、徳島公園に一万二千人が集まったことを報じている。水増しはあるだろうが、写真を見る限り黒山の人だかり。

 ■笛吹けど…■

 大阪放送局は大正十四年六月から、当時は無線電話ともいわれたラジオ放送を始めた。後には速報をめぐり新聞と対立関係になるラジオだが、初期は新聞や通信社が無償でニュースを提供するなど協力的だった。

 昭和三年の盆踊りは「多年沈滞した徳島市の産業界に活気を与えるのは、盆踊り以外にない」と、徳島商工会議所が願い主となり盆踊りポスター数千枚を作って市内各所に掲げ、踊り気分をあおった。しかし「見物人が何十倍かの多数の人出で、富田町、内町共立検、秋田町も五々三々の有様で一向気乗らず」(徳毎)と初日の様子を伝えており、踊りの方は相変わらず沈滞ムードが続いていた。

 この年の踊り時間は、午前八時から午後十一時までとさらに制限された。従来は「緩衝地帯」といわれ、翌朝まで踊り放題だった秋田町の南廓(なんかく)内でも警官隊が「時間がきたから」と踊りを禁止する始末。検番役員が徳島警察署長と会談の末、やっとOKになったこともあった。


Copyright (C) 2001 New Media Tokushima Co.,Ltd.. All Rights Reserved