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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞 1998年6月29日掲載
執筆者 石川文彦
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写真掲載
最初は舞妓の踊り
明治三十六(一九〇三)年以来、二日間(三十七年は中止)だった阿波踊りは四十三年から再び三日間となった。この年は米が豊作、秋蚕も順調なうえに、関東、東北地方の水害で値段が高く、八月十八日からの踊りも意気上がった。
徳島毎日新聞はその様子を「踊子は近年にない大派積。見物人尚更らの事。新町橋付近を例の中心点として東西新町から鍛冶屋町、紺屋町、通町、中通町、西は佐古町通りは九時頃からは身動きもならぬ有様。六十、七十とも見ゆる老媼(おばあ)、老爺(おじい)までも交りて踊るは踊るは」と伝え付け足して「人間の遊戯本能は十分に発揮された。遊ぶ時には思ひ存分遊んで、働く時はシッカ
リ働くべし」。戦前にはよくこのように記者の感想を付け加えていた。
■裸踊り厳禁■
このころには既に女装、男装は厳禁だったが、この年は大いに盛り上がったためか、派手な女装姿で踊ったり、中には下半身丸出しの男性がいた。
警官から厳重な注意を受けたことを実名入りで伝える記事もある。また「酒樽(だる)を首にかけエライヤッチャ、エライヤッチャと囃(はや)し行くを物々しき査公、それさえ容赦ならずと有って警察署に同行、一時酒樽を引揚げ、昨日下げ渡しとは厳しいぞ厳しいぞ」という記事も。踊りの取り締まりはだんだん厳しくなっていった。
徳島毎日新聞に初めて掲載された阿波踊りの写真。
前日の富街の芸舞妓の踊りを写した
注目されるのは、この年から新聞に阿波踊りの写真が載り始めたことだ。県内の新聞に初めて写真が登場したのは三十七年六月五日の徳毎。日露戦争中とあって「旅順口に於ける敵艦検閲の図」だ。わが国で初めて写真を掲載した新聞は同年一月の「報知新聞」で、半年後には県内の新聞にも載ったわけだ。
当初は名所、旧跡などが中心で、ニュース写真は少なかった。四十三年一月になって写真班を組織、製版局も設置して、ニュース写真の速報が可能となった。
■左側を通行■
同年八月十九日、徳毎に初めて掲載された阿波踊りの写真は、前日午前の富街の芸舞妓(げいぶぎ)の踊りを撮影している。今の新聞で三段に相当する大きさで、鮮明ではないが、当初に比べかなり見やすくなっている。翌日も二枚掲載しているが、いずれも写真は写真で独立し、関連記事はない。
四十四年も三日間、黙許され、この年から雑踏、衝突を避けるため、踊り連の左側通行が決められた。
四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇が逝去。早朝には「天皇崩御」の号外が配布された。全国の新聞はその後、数日にわたり各面とも黒枠で囲み、哀悼の意を表した。新しい年号「大正」はその日に決まり、翌日発表。天皇の死により、この年の踊りは中止となった。 |
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