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新聞で見る阿波おどり

明治編
新聞記事
徳島新聞
1998年6月28日掲載
執筆者 石川文彦
開催許可

反対に遠慮し黙許

 明治時代に警察が発足し、阿波踊りの開催許可権限は藩から警察に移った。十六(一八八三)年八月九日付普通新聞に、この年の踊り許可について記されている。

 それによると「願出(い)でたる人々は、市街の顔役とか世話焼とか何とか蚊(か)とかいずれ相応の役名あるべきもの都合三十八名」で、連署調印のうえ「賑之(にぎわいの)義に付願」の文書を七月十九日、警察に提出。二十一日に「部長代第四部主任」の名で、八月十六日から三日間の踊りについて「願之趣聴届候事」の返答があった。

 阿波踊り開催にはこのように「願い人」がいて警察が許可していたわけだが、その中心人物は踊りいっさいの世話をする元締めでもあった。

 ■辻々にビラ■

 警察へ届け出て許可を得ると、願い人は早速、はりし(ビラ)作りにとりかかる。赤と緑の横線の入った生ずきの一枚紙に、墨で日付とともに「盆踊りあり」と次々と書き入れる。書き上げたビラは小わきに抱え、各町の顔役らに触れて回る。その際、酒さかなのもてなしを受け祝儀袋をもらうのも願い人の余得だった。ビラは顔役らを通じ辻々に張り出され、一般の人に周知される。開催期間中は踊りの様子を見回り、ケンカの仲裁をするなどトラブルの解決に当たることもあった。


三味線を弾きながら新町橋を流す女性。まんじゅう笠(かさ)や常盤笠をかぶっている=明治末期

 願い人として十年代の新聞には「新魚町の東條嘉市」らの名が見えるが、有名だったのは「大工町の明常太郎(常吉)」。明はもともと目明かしの下回りで、警察によく出入りし、顔も売れており、こういう役にぴったりだったのだろう。大正九(一九二〇)年九月、六十九歳で亡くなる数年前まで願い人を務めていた。

 ■警察を批判■

 ところで許可についてだが、明治三十年代に公許から黙許に変わる。三十一年の徳島日日新聞に「昨日より公許か黙許か訳が分らねど、盆踊りは止められずに出来るので」とあるから、このころが分岐点だろう。以後、昭和に入るまで、開催の際はずっと黙許の状態が続いた。踊りを野蛮だとして強力に反対する人たちに遠慮した結果、警察も願い人に対しはっきりとした態度を示さないまま黙許ということになったようだ。

 こうした警察の態度について、三十九年九月五日の徳島毎日新聞は次のように痛烈に批判している。

 「明治の教育を施(ほどこ)せし青年男女に向って、盆踊りの黙許なんぞと巫山戯(ふざけ)た真似や馬鹿騒ぎをさせて面白さうに見てゐる呑気(のんき)さ加減。元来が許されぬものと認むればこそ、黙許などと体の能(よ)い逃口上。さうかと思へば内々は賛成かも知れぬ御様子。其の筋の役人先生の頭脳の改良のマダ出来ぬにも関(かかわ)らず、一部利害の関係を有する商人の外は何人と雖(いえど)も其の馬鹿らしさを気付きて、年々歳々に衰へ行くばかり…」。


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