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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞
1998年6月27日掲載
執筆者 石川文彦
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日露戦争中
年初から祝勝乱舞
明治三十七(一九〇四)年二月十日、日本はロシアに宣戦を布告する。
日清戦争時でも県内紙は特派員を派遣したが、この戦争でも派遣。新聞史上最大の号外合戦を演じ、多い時には一日に五回発行された。しかし号外発行には電報料金の負担など膨大な経費がかかり、部数は増えても経営を圧迫する要因ともなった。
二度にわたる社屋の火災などで経営状態のよくなかった徳島日日新聞は、戦争中の三十七年五月十二日、廃刊を宣言。徳島新報に吸収合併され、題号は「徳島日日新報」(徳日)となった。
旅順陥落が間近とみられていた明治37年8月25日付徳島日日新報に掲載された「祝勝踊り」のさし絵
日露戦争中の阿波踊りはどうだったか。三十七年の旧盆には旅順陥落が近いといわれていたため「旅順陥落の捷報(しょうほう)に接したる時より二日間に限り祝捷踊り黙許となる。千載一遇の大吉辰踊れよ踊れ盛んに踊れ」(徳日)だったが、旅順が陥落したのは三十八年一月。同年は夏の盆踊りのほかに、年初から日露戦争で各地が陥落するごとに何度も祝捷(勝)踊りが開催されている。
祝勝踊りで目覚めたのか、日露戦争後の阿波踊りはなかなかにぎわった。ただ雨に悩まされた年が多かった。
明治四十年は旧暦の七月十五、十六日にあたる八月二十三、二十四日が盆踊りの日だった。前景気が良く、二十三日早朝の様子として「涼風に打たれつ市内各方面より伊勢音頭や六太夫を合はして流し来るあり。或(あるい)は若者の勇ましき姿に扮装(いでたち)て踊り来るもあり。如何(いか)にも前日来の噂(うわさ)に違はざる光景」(徳日)とあり、早朝のにぎわいとともに伊勢音頭や六太夫が阿波踊りに取り入れられていたことが分かる。
■雨が水さす■
ところが午前七時ごろから雨となり、翌日も降り続いた。こうしたなか撫養町(鳴門市)では小雨になると「雨傘さしたる踊連あり。中には篠突く如(ごと)き雨を犯して踊り居りしもあり、正気の沙汰(さた)とは思はれざりき」(徳毎)様子だった。徳島市内にも少数ではあったが「米俵を冠むり、或は背中に傘を立てて踊る連中」(徳日)がいるほど盛り上がった。
こうした踊り手の熱意が実ったのか、この年は二十七日に出直し盆踊りが黙許される。このころになると阪神地方などから踊り見物に来る人も多くなり、警察への許可申請理由も「他府県から盆踊り見物にやってきた人たちは、まだ旅館に泊まったままであり、二十七日一日だけでも踊らせてほしい」だった。
■出直し盛況■
三十二年二月に徳島鉄道(当初は徳島―鴨島間)が開通、大きな催しがあるときには鉄道料金を半額にしたこともあり、県内からの踊り見物人も次第に増えていた。
天気に恵まれた出直し盆踊りは盛況だった。徳日によると、家に引っ込んでいるのは病人だけで、見物人がことのほか多く、氷店は“寒氷、寒氷”の声を掛けるひまもないほど。踊る人も夜になってから急に増え「全市踊り人(て)の通らざるはなく、否な込み合はざるはなきの有様にて内町、富街、遊廓の芸舞妓は一人も残らず、其(そ)の不足に困りし程の売行き。検番の前は芸舞妓の来往に一大混雑、検番の連中は手を打っての大喜び。
料理屋も亦た大繁昌(はんじょう)を極めたり」と伝えている。 |
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