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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞 1998年6月25日掲載
執筆者 石川文彦
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舞踏の神聖
「風紀の乱れ」批判
明治三十一(一八九八)年六月には、徳島日日新聞、徳島新報に続く県内有力新聞として徳島毎日新聞(徳毎)が創刊される。いずれも今の徳島新聞の前身だが、なかでもこの徳毎は今の徳島新聞の旧社屋がある徳島市幸町(当時は寺島町)にあり、創刊当時の社屋がほぼそのままの形で、昭和十九(一九四四)年の現徳島新聞発足後も使用された。
この徳毎は、日日の元主筆だった首藤貞吉(一八六一―一九三六)らが設立した。中立を標ぼうしていたが、実際は進歩党系の新聞。進歩党は以前の立憲改進党のことで、もともと日日が同党系だったが、次第に中立色を強めていった。このことが、改進党から派遣されてきた首藤が退社する一因ともなり、徳毎誕生の大きな要因ともなった。
■投書相次ぐ■
この徳毎も阿波踊りに対しては日日や徳島新報と大差はなく、風紀を乱す事に対し激しく攻撃している。
徳島毎日新聞社屋(明治40年ごろ)。現徳島新聞発足後もほぼそのままの状態で使用された
明治のころの新聞の投書欄はその社の主張を代弁する意見が多い。徳毎の投書欄「傀儡函(かいらいばこ)」は「徳島の盆踊は何と云(い)っても前世紀の遺物で、風紀を八釜(やかま)しく云ふ今日、公然演(や)らすべきものでは無い」「盆踊が歓迎される限り、紊乱(びんらん)全国に冠たる我が徳島の家庭は到底清められる事では無いだろう」といった意見ばかり目に付く。
また県内各地の真夜中の様子を伝えた連載企画「徳島の真夜中」が三十四年八月から始まるが、同月三十一日には盆踊りの夜を紹介する前に踊りについて次のように書いている。
「盆踊は全く徳島の名物で、全市街を舞踏場として放歌乱舞するのは他府県では見ることの出来ない習慣である。そしてこれを害用して風儀を紊乱せないものならば随分優美な習慣で仏蘭西(ふらんす)の花祭に匹敵せしむるに足る位のものであらうと思はるる。残念な事には熱い血が通ふて居る若い男女が狂ふた情(こころ)の迷から、自分の品性を傷(きずつ)け併せて優美なる舞踏の神聖を壊(やぶる)のが実に嘆(なげか)はしいのである」
そして午後十一時からの市内偵察の様子として「若い女の身空で印袢纏(はんてん)に短かい半股引(ももひき)、肉付き豊な太股まで露出して飛び廻る」「浴衣の裾を高々とからげて褌(ゆもじ)もせねば股引も着けず、男の中へ雑(まじ)りて踊り散している」と報告。「新日本の風俗はかかる野蛮な狂態を黙許すべきでない」と言い切っている。
■期間を短縮■
阿波踊りは三十三年から四年間は連続して開催された。人出はあっても「雑沓(ざっとう)せる者の九分通りは看人」(徳毎)と、見物人ばかり。
午後十一時になると踊り手もなく、静かになった。
こうした中、三十六年からは踊り期間が三日から二日間に短縮される。踊りに活を入れようとしたのかもしれないが、踊り手が少ない状況に変わりはなかった。 |
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