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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞 1998年6月24日掲載
執筆者 石川文彦
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退潮ムード
藍商の経済力沈下
日清戦争は日本の勝利で終わった。明治二十八(一八九五)年五月二十三日には徳島市の滴翠閣で官民合同の凱旋(がいせん)奉祝園遊会があり、翌日にかけて市内一帯で「旧慣習の発狂(きちがい)踊り」が開催された。
「時計鍼(はり)が十二時を廻らぬ宵の間から踊り狂い…東西南北隅から隅までジャンジャンバタバタ弾き廻り踊り狂う状、百鬼夜行とは正に是れなんめりと思はれたり」と徳島新報が報じているように、戦争勝利を祝い、大いに弾んだ。
■コレラ流行■
しかし夏の盆踊りはコレラがまん延し中止。その後も退潮ムードが漂う。徳島日日新聞によると二十九年は「近年珍しき淋(さび)しさにて、殊に踊りの花を添る富街へ入る客なく、最初の日の如(ごと)きは何れのお茶屋を覗(のぞ)くも客の派積みし気色なく、偶またま景気よく二、三の芸舞妓引きつれて踊りゆくは純粋の客とてなく、多くはお茶屋の亭主…以て踊りの淋しかりし一班を知るに足るべし」とある。
徳島市の滴翠閤で開かれた凱旋奉祝園遊会=明治28年5月25日付、徳島新報
三十年も「其筋の意向」あるいは「伝染病流行の兆しあり」として中止。日日では「人の心はさまざまにて、踊りの出来ぬため心静かに仏参り仏まつりの出来るを喜ぶがあれば、又(ま)た三味線の音の聞えずては少しも盆の来た心地がせず、何の事やら訳が分からぬと独り腹立てて罪もない処へ当って行く男も沢山(たくさん)ありとかや」と書いている。
三十一年には「公許か黙許か訳が分らねど」やっとのことで開催されたが、翌三十二年は明確な理由もなく不許可となり退潮ムードは覆せなかった。
こうして踊りがさびれていった原因は何なのだろう。第一に藍産業の衰退があげられる。藍商は明治に入っても強大な力を持ち、久次米銀行のほか阿波国共同汽船、徳島鉄道会社など新企業を次々と設立する。しかし藍産業そのものは県外産藍の台頭やインド藍の流入により次第に衰退、県の経済力は沈下し、藍商がスポンサーとなっていた阿波踊りにも影響を与えた。
■規制の強化■
続いて警察による踊り規制強化も大きな要因だろう。まず踊りの時間。以前は深夜も何のその、二十四時間踊りが絶えなかったが、二十九年からは午前零時を過ぎての踊りが禁止された。
また従来、踊り期間中は警察の取り締まりも寛大だったが、次第に通常時と変わらなくなり、女装、男装でさえ説諭を受けるようになった。続いて三十一年からは覆面踊りも禁止となった。
このほか教育の普及とともに、学校では子供の踊りへの参加をやめさせる風潮が出てきた。以前は良家の子女が着飾り、習った遊芸を競って披露。
男児も近所の子と集団で踊りに出たが、だんだん少なくなった。大人の方も踊るより見物する方が多くなり、踊りから活気がうせていった。 |
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