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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞 1998年6月22日掲載
執筆者 石川文彦
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郡部に波及
旧盆(7月)に昼間も
阿波踊りは現在では徳島市内が中心だ。ところが明治時代には同じ旧盆の七月十四日から三日間にわたり、県内各地で踊られた。
■熱心に練習■
明治十六(一八八三)年八月四日付普通新聞には、新聞で盆踊りの弊害を指摘しているにもかかわらず「益々(ますます)盛になるのみか、次第に郷村に波及したものと見へ、勝浦郡小松島浦村の市街(今の小松島市)などにては、小女(こむすめ)は云(い)ふに及はず新造年増までが俄(にわか)に三味線を買ひ入れ、其所(そこ)にも此處(ここ)にも濁(だ)みたる聲を張り上げてチャカチャンチャカチャン…」と熱心に練習している様子を伝えている。
「新町橋までいかんか来い来い」とうたわれ、にぎわった新町橋。明治13年6月、木から鉄製に架け替えられた=「阿波国地誌略」(高知県徳島師範学校出版刊)から
二十一年十一月になると普通新聞に対抗し石田真二(一八六三―一九二七年)によって「徳島新報」(以下、新報と略す)が発刊される。普通新聞は好調な新報に刺激され、二十二年一月から「徳島日日(ひびひび)新聞」(日日)と改題、紙面の充実を図る。日日が改進党系だったのに対し、新報は自由党系の新聞だったが、阿波踊りに対しては新報も日日同様、紙面で非難している。ただ踊りの様子などは地方も含め詳しく伝えている。
二十二年八月十一日付新報によると「十日より十三日まで四日間、西麻植村東境より桑村西境までの間は踊り次第なりとて専ら其準備中なるが、堂(どう)か踊る人も見る人も此節は九十五・六度の暑さなれば、日盛り丈は惜(おし)くともお休み下され…」とある。当時は気温をカ氏で表示したため大変な数字になるが、セ氏では三五・四度。こうした猛暑のなか、夜だけでなく昼間も踊っていた。
■期間は4日■
注目されるのは踊りが四日間だったこと。徳島市内の踊りは当時三日間だったが、西麻植村など地方によってはそれより長く踊っていた所もある。
ただ県内全体として阿波踊りは明治二十年以降、だんだん活気が失われていく。二十一年には七月に吉野川の堤防決壊により名西郡西覚円村(今の石井町)を中心に多数の死者を出す惨事があったこともあり「盆踊りは最初の景気に比べると存外に淋(さび)しく、概して云(い)えバ昨年より余程落ちて見ゑたり」「思いの外(ほか)人気浮
立(うきたた)ず、例年通行も自由ならぬ新町橋も大手を振(ふっ)て往来思ふが壗(まま)なり」(普通新聞)という状態。二十二年も不景気で、富田町の芸者も「アア如斯(こんな)淋しい盆があろうか」(日日)と嘆いている。
二十三年には金融恐慌が発生、翌年五月には藍商・久次米兵次郎(一八二九―一九一三年)により設立された久次米銀行が破たんしたため、踊りも盛り上がらず、二十五年にはいったん許可されながら中止の憂き目に遭った。
二十六年は久しぶりに盛況だったが、二十七年は日清戦争のため、またも中止になっている。() |
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