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新聞で見る阿波おどり
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徳島新聞
1998年6月18日掲載
執筆者 石川文彦
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文明開化期
伝統的行事を攻撃
幕末の慶応三(一八六七)年から四年にかけて、東海、近畿地方を中心に大流行した「ええじゃな
いか」踊りは、徳島にも波及した。当然、阿波踊りも大きな影響を受け、よりスピーディーに、より激しくなっていった。「ええじゃないか」の終息とともに幕府も倒れ、明治新政府が発足。しかし維新をたたえて踊りは続けられた。
■5年間中止■
ただ、一時は以前のにぎわいが影を潜めた。明治元(一八六八)年と二年は市街地ではあまり踊られず、また三年は庚午事変(稲田騒動)のため厳禁、五年も中止となった。
しかし、四年には評判所が復活、桟敷も設けられたというから、江戸時代のにぎわいも少しは復活したのではないだろうか。
阿波踊りと違ってリズムに合わせることもなかった「ええじゃないか」踊り=1931(昭和6)年6月、徳島日日新報に連載された「阿波のえぢゃないか」の挿絵から
この年の七月、廃藩置県により徳島藩は徳島県となり、十一月には淡路全域を管轄し名東県と改称される。六年二月には香川県をも併合。この時、県内初の新聞として「名東県新聞」が発刊され、翌月には「徳島新聞」も創刊されている。
ただこれらは新聞というより雑誌に近く、本格的な新聞の創刊は九年四月の「普通新聞」。この
「普通新聞」は改題、合併、戦時統合、組織変更を経て今の徳島新聞に続いており、いわば徳島新聞の原点ともいえる。新聞を武器に自由民権運動を進めていこうとした益田永武(一八五〇―一九〇三年)らが創刊した「普通新聞」は、阿波踊りについてどうみていたのだろう。十四年八月十日付にはこう出ている。
「…狂気(きちがい)踊りはいよいよ其筋々の御許可相成りしと見へ、誤愚弄千万(ごくろうせんばん)にも昨日早朝より異形(いぎょう)の扮立(いでたち)にてノソノソ這(は)ひ出し機関(からくり)人形に三味線を持たせたやふにペコペコ猫の皮を弾き、緋縮緬(ちりめん)といへば奥床(おくゆか)しいが赤の唐縮緬が七、八分で羊羮(ようかん)色の繻子(しゅす)の帯を尻高に締め上げ、ヤットの工面で新調した編笠(あみがさ)でおたふくを蔽(おお)ひ、のこのこしゃあしゃあと街衢(がいく)(まち、ちまたの意味)を縦横に往(ゆ)きかふ有様は、どう見ても正気の沙汰(さた)とは思はれません…」
阿波踊りは当時、狂気踊りまたは、盂蘭(うら)盆踊りと呼ばれていたが、新聞は決まって踊りに対して冷淡だった。文明開化の過程では旧来の伝統的なものをすべて否定することが開化と見なされるムードがあったためだ。
■巡礼も非難■
このため、相撲や四国巡礼に対しても同様に攻撃した論調がみられる。十一年四月二十一日付社説には「角力(すもう)ヲ禁止セサレハ文明退歩スルノ論」と題し「相撲などは食べるにも困りかねた放蕩無頼(ほうとうぶらい)の者のたどり着くところで、その所行(しょぎょう)は博徒(ばくと)さながらだ。無用の醜体の賤業(せんぎょう)を一掃しなければ“東洋の秀国”となる日は遠い」(要約)と記し、同二十三、二十四日付では四国巡礼に対し、巡拝者を「異様の風姿をなし乞食(こじき)を学ぶ」と非難、四国の弊習と決めつけているほどだ。 |
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